力士血風録-1

 

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その中には、一過性で忘れ去られるには惜しい記事や随筆もあります。
それらの力作を多くの人に読んで頂きたく、随時掲載して参ります。
新選組友の会主宰・大出俊幸
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今回は平成二十年四月・二一五号からの掲載です。

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力士血風録-1
伊東 成郎

幕末期には、有名無名のさまざまな力士が、伝説的な数々のエピソードを残している。
そんな一人に、八陣和一という相撲取りがいた。
出雲国に生まれた八陣は、いつの頃か大坂に下り、大坂相撲の名力士とうたわれた小野川信蔵の門下に入った。力量無双と称
された八障の威風は、たちまち多くの好角家を唸らせたという。
だが八陣には大きな欠点があった。性格が際立って騎慢だったのである。
ある日のこと、道頓堀の角座に芝居見物に出向いた八陣は、満席のため木戸番から入場を断られた。しかしそこは八陣和一、
制止もものかは、小屋に入ろうとする。

なんとか八陣を留めようと、小屋の中から数人の出方が繰り出してきた。激昂した八陣は、二人の出方を両腕に楽々と掲げ、
両人の頑同志を振子のように激突させて、とんだ大怪我を負わせてしまったという。
この騒ぎに奉行所から捕方が駆けつけてきた。八陣はただちに連行されてしまったのである。
だが、幸いなことに八陣は強い人脈を持っていた。かねてから吟味方与力の八田某にかわいがられ、八田家の食客となってい
たのである。
この八田某とは、八田五郎左衛門の事とみられる。八田は西町奉行所筆頭与力の内山彦次郎の甥にあたる人物だった。
諸式値上げの元凶などとされ、元治元年(一八六四)五月二十日に大坂の天神橋で新選組に暗殺された内山は、当時、奉行所の
一大実力者でもあった。
内山彦次郎は、かねがね多くの力士たちに目を掛けていた。新選組生き残りの永倉新八の証言によれば、内山は「嬢夷の先駆
け」として、日頃から力士たちに樫の木でできた八角棒を持たせていたという。文久三年(一八六三)六月には、この凶器を携
えた力士たちと新選組が、大坂の北新地で激しい乱闘を繰り広げる騒ぎもあった。